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主な埋蔵文化財包蔵地(遺跡)

[2013年10月11日]

古河の地形

 古河市の地形は、利根川により開析された利根川中流低地とよばれる標高10メートル前後の沖積低地と、標高15メートルから20メートル前後の常総台地西端の洪積台地とからなっています。

 台地は旧大山沼(向堀川)、旧釈迦沼(女沼川)、旧長井戸沼(宮戸川、大川)、旧飯沼(西仁連川)などに流れ込む小河川によって浸食され、樹枝状の地形を形づくっています。これらの台地縁辺部を中心に太古より人々が生活していた痕跡(遺跡)が多数分布しています。

旧石器時代の遺跡

 今から約200万年前から約1万2,000年前の時代を旧石器時代と呼んでいますが、日本列島では後期旧石器時代(約3万5,000年前から紀元前約1万年)より前の時代の遺跡は、現在のところはっきりしていません。当時は現在よりも気温が低く、大陸には氷河が発達していました。そのため海水面も低く、日本海を内海として本州や北海道は、サハリン、大陸と陸続きになっていました。そこを通りナウマンゾウやオオツノジカなどが日本に渡ってきていました。人々は石や動物の骨、角、植物などからさまざまな道具を作り出していました。しかし、石器以外の道具は腐ったり溶けてしまってほとんど見つかりません。

 市内には採取された石器などから、旧石器の遺跡と考えられている範囲が25カ所確認されています。宮戸川左岸の台地上に分布する行屋西遺跡[106]では総和町町史編さんに伴う試掘調査時に約2万2,000年前の人々が残したと考えられる角錐状石器が出土しています。また、渡良瀬川東側の小支谷である鴻巣の谷付近には、槍先として使われた尖頭器と呼ばれる石器が採取された虚空蔵東遺跡[045]や細石刃石核と呼ばれる細石刃を剥ぎ取った石の塊が採取された鴻巣C遺跡[032]が分布しています。

縄文時代の遺跡

 縄文時代は約1万2,000年前から紀元前3世紀頃まで続き、市内に195カ所の遺跡が確認されています。氷期が終わって間氷期をむかえるとともに気候は温暖化していきました。気温の上昇とともに海水面も上昇し始め(縄文海進)、前期には最高位に達します。

 西部では鴻巣の谷、坂間の谷と呼ばれる渡良瀬川に注ぐ小支谷を臨む台地の縁辺部に多くの遺跡が分布しています。早期から晩期と時期に幅がありますが、多くは前期の黒浜段階と後期の称名寺・堀之内段階です。市史編さん事業に伴って発掘調査が行われた元屋敷遺跡(原町西貝塚)[044]では、廃絶された住居跡に形成された貝塚を確認しています。中央部では、旧大山沼(向堀川)左岸の思案橋遺跡[082]や旧釈迦沼北岸の釈迦才仏遺跡[126]の発掘調査時に、後期から晩期の土器とともに祭祀行為に使用されたと考えられる土偶や土面が出土しています。また、東部の旧飯沼(西仁連川)左岸に位置する北下山遺跡[227]でも、石棒・石剣・耳飾・土偶などの祭祀遺物が大量の土器とともに出土しています。

弥生時代の遺跡

 弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀頃まで続きました。(早期の土器に付着していた煮焦げやふきこぼれなどの炭化物を炭素14年代測定法によって計測した最近の研究では、紀元前8世紀までさかのぼるともいわれています。)市内では37カ所が確認されていますが、伝聞によるものもあり、発掘調査によって確実に住居跡が確認できたのは久能西原遺跡[135]だけです。

古墳時代の遺跡

 3世紀後半から7世紀初頭を古墳時代といいます。古墳時代の遺跡は市内に231カ所を確認しています。渡良瀬川に流入する小河川周辺では、試掘調査時に鴻巣D遺跡[033]、坂間遺跡[009]で後期の住居跡を確認しています。また、旧長井戸沼(宮戸川)周辺には中期から後期の住居跡17軒検出した香取西遺跡[133]、前期から後期の住居跡26軒を検出した北新田A遺跡[136]、中期の住居跡から子持勾玉を始めとする多数の石製品が出土した向坪B遺跡[200]などが分布しています。さらに、旧釈迦沼(女沼川)右岸の羽黒遺跡[113]では、住居内の炉に置かれたような状態で出土した土製支脚が注目されます。

 231遺跡のうち33カ所は古墳です。しかし、墳丘が比較的残存している古墳は25カ所だけで、頼政郭古墳[011]、高台古墳(2号)[014]や中田古墳[012]などは渡良瀬川・利根川の河川改修工事の際に湮滅しています。また、中田の駒塚古墳[065]と仁連の八幡塚古墳[218]は市指定史跡になっています。

奈良・平安時代の遺跡

 奈良・平安時代の古河市域は下総国の猿嶋郡もしくは葛飾郡に属していました。河川が合流する古河の地は交通の要所で、下野国、上野国、常陸国、武蔵国と極めて近い距離に位置していました。また、「万葉集」巻14の相聞歌に詠まれる「許我」は「古河」であると考えられています。(麻久良我の許我の渡りのから楫の音高しもな寝なへ児故に=訳「こがの渡しに響き渡る櫓の音のように、なぜ人の噂が高いのか。共寝もしたことのない娘なのに。」逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも=訳「あわないでこのまま行かせてしまうのは惜しいのよ。まぐらがのこがを漕ぐ舟のなかでだけでもあの人と逢えないものか。」)

 この時代の遺跡は市内に197カ所を確認しており、「厩」の墨書土器が出土した柳橋の北新田A遺跡[136]は、遺跡が当時の主要道の交通施設である「駅屋」(うまや)に関係する可能性もあります。また、尾崎には、三和産須恵器の生産遺跡である浜ノ台窯跡[369]が所在します。

中世の遺跡

 中世鎌倉時代は、原念斎(はらねんさい)が、その著「許我志」(こがし)において「古河ハ即チ下河辺荘ナリ」と記述しています。下河辺氏の本拠が古河であったかどうかについては諸説ありますが、今後の調査に期待したいところです。中世の遺跡は市内に85カ所を確認しており、鴻巣には、茨城県指定史跡に指定されている室町時代後期の「古河公方館跡」[県(1)](総合公園内)があります。

近世の遺跡

 近世の遺跡は市内に40カ所を確認していますが、江戸時代に古河藩が所有した城郭である古河城が有名です。古河城(古河城跡[074])には、後北条氏滅亡後、小笠原秀政が入部しました。以来、12家の大名交代がありました。第2代城主の松平康長のころは、全国的に築城ブームであり、このころ近世城郭としての古河城の素形ができあがりつつあったとみられます。観音寺曲輪、百間堀などの拡張もこのころ行われたといわれています。ところで、古河にとって今も歴史上最も人々の心に生き続けている城主は、土井利勝だと思います。このころ、本丸の天守に相当する「御三階櫓」ができ、名実ともに古河城の完成となったと考えられます。それ以前の古河城、すなわち足利成氏をはじめとする古河公方の居城については、伝存史料に乏しく詳しくは分かっていません。

 古河城は、明治6年のいわゆる「廃城令」により、競売され、建造物は取り壊されました。また、明治43年から始まる渡良瀬川改修工事に伴って、本丸を含む南西半部が水没してしまいました。現在は、北東半部の一部に土塁の一部のみが残存し、百間堀の跡が蓮田から伺えるだけです。早急に現状確認および遺構確認調査を実施するなど保存対策が望まれます。

参考文献

  • 古河市史編さん委員会 『古河市史 通史編』 古河市 1998年
  • 古河市史編さん委員会 『古河市史資料 第10集 古河城・鴻巣館 県指定史跡古河公方館跡 -遺構調査・発掘調査報告書-』 古河市 1985年
  • 総和町史編さん委員会 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 総和町 2005年
  • 三和町史編さん委員会 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』 三和町 1996年

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