出城ノモリ~歴史トリビア~

更新日:2023年11月01日

出城とは?

日本で一番有名な出城は大坂城の真田丸ですが、古河城にも出城があり城の一部として機能し、諏訪曲輪(すわぐるわ)と呼ばれています。出城と古河城本城を隔てる百間堀にかかる土橋の御成道を守る橋頭堡(きょうとうほ:橋をまもるため、その前方に築くとりで)として作られました。

出城とは

御成道とは

でじろ

古河城下模型:古河歴史博物館

お成道

古河城下模型:古河歴史博物館

神君徳川家康を祀る日光山へ社参するには、一日で行けないので日光道中や日光御成道の各所に泊まります。その宿城地は、岩槻・古河・壬生・宇都宮でした。将軍の通る道は御成道と呼ばていました。

古河城には往復で1泊ずつ滞在するのですが、古河藩の藩士たちはその準備におよそ1年を費やしたそうです。

【御成道を通り、古河城に泊まった将軍】
徳川秀忠、家光、家綱、吉宗、家治、家慶

昔の町名(現自治会名)の由来

昔の町割り図

昭和初期の小字名(都市計画課が作成)

江戸時代初期、町割りに住んでいる人たちが別れていました。その名残が現在にも自治会名などとして残っています。
※時代の流れにより、住む人の区分けは段々薄まっていきます。

大工町:大工が多く住んでいた場所。町人なども住んでいました。
鷹匠町:殿様の鷹の調教をする役職の武士が多く住んでいました。
三神町:町内に3つの小さな祠があったからと言われている。
一丁目:日光道中古河宿の通り丁名。
台町:古河城下の出入り口の場所であったため。

地図には載っていませんが、、、
諏訪町:出城があった場所の地名。古河公方足利成氏に従って、古河に来た長野県の豪族である諏訪氏が屋敷を構えたためという説もあります。
四軒町:武家の御屋敷を4軒割り当てた街区であった。
江戸町:渡良瀬坂通りが江戸のように賑やかだったことから名付けられた。

出城の横矢

でじろのよこや

出城のお堀に沿ったクランク(曲がり角)は、2方向から矢を射ることができるそう。。江戸時代には古河で戦が無かったので、実際に矢がいられることはありませんでした。

御茶屋とは?

陽明堂の西側には、江戸時代に神君徳川家康が祀られた日光山に将軍、譜代大名および旗本たちが社参する行事(日光社参)する際に、休息するために造られた御殿がありました。
※今は現存していません。

古河第一小学校

赤門

こがだいいちしょうがっこうあかもん

古河第一小学校の赤門に使われているレンガは明治時代に野木の煉瓦窯で生成されたものが使われています。
東京駅に使用されている煉瓦も同じものが使われているという説もあります。

福法寺乾門

にのまる

古河城下模型:古河歴史博物館

旧古河城内の二の丸御殿にあって、乾門(いぬいもん)と呼ばれてきた門です。明治6年(1873)、古河城取り壊しに際して檀家が払い下げを受け、寺に寄進したものです。

鷹見泉石記念館

たかみせんせききねんかん

鷹見泉石記念館は古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、隠居後の鷹見泉石が最晩年を送った家と伝えられています。
また、この建物は寛永10年(1633)古河城主土井利勝が、古河城の御三階櫓を造ったときの余材を使って建てたと伝えられます。

元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府にくだった水戸藩士100名あまりが一時収容されていました。

この記事に関するお問い合わせ先

古河市 都市計画課 
所在地:〒306-0198 茨城県古河市仁連2065番地
電話番号:0280-76-1511(代表)
ファックス:0280-77-1511
都市計画課へのお問い合わせ